ライフオブウェイスト
何のために生きているのだろう?
人間誰しも考えることではないだろうか。
規則正しく生活すること、自分が成長するため、誰かのため、何のためでもないただ生きているだけ、ご飯を食べるため、楽しいことをいっぱいするため、
いろんな答えがあるだろう。それはすべて間違いじゃない、すべて正解だと思う。人は生きているだけでそれだけで本当はいいんだ。
でも、人はみんな理由や意味を見つけたがる。
わたしも見つけたがる。わたしは何のために生きているのか?
きっと温かい気持ちになるため。
それがどんなことか、今も明日も探し続けている。
どんなときにあったかい気持ちになるだろう?
そう質問されたらわたしはたぶんすぐに答えることができない。
あったかい気持ちになるときなんて、予測不可能なのだ。
名前のない感情だったりするんだ。
そんなものにたくさん出会うことそれがわたしの生きる理由。
例えば今日はたくさんあった。
たくさんあったけど、わたしはうまく言葉にすることができない。
でも、思い出してみる。
煙草の煙を気にしながら私の一歩後ろに座る友達のこと。自然をリスペクトする人で、必ず立ち去るときにお礼を言う。笑顔でいることは何もなくてもすぐできることだと教えてくれた。
なんでか分からないけどこの人とこの先ずっとこんなふうにお酒を飲んでいるんじゃないかという気がしている。
前向きで明るくてしっかり毒もあるたくましいお姉さんだ。
わたしはそんなお姉さんに全てを語ることはないけれど、落ち着いていられる。なぜだろう、わからない。わたしは言葉をあまりにも知らなすぎる。
ただ、ひとつ、わかるのは
お互いを大事に思うこと。
これはごくあたりまえで本質的なことかもしれない。
大事に思おう。とするのではなく感情は溢れ出るものであるべきだ。
お姉さんは自分の感覚に絶大な信頼を置いている。指から血が止まらず病院で焼いて止血した後すぐ仕事に戻り、売り上げをガンガン取っている人だ。
なんというかどこからそのエネルギーが捻出されているのだろう。
ただ、人間性に惹かれるものがあってわたしはその人といるとなにかしらの感情が溢れ出ている。
わたしたちは、温かい気持ちを共有しながら生きているんだ。
これは言うまでもなく愛で、愛というとちょっと恥ずかしいけど、そもそも誰しもが不完全にできているんだから、しかたない。
不完全だから我々はそれを恥ずかしいと思うけど、どっかの誰かは不完全なものを見て温かい気持ちになるかもしれない。
不完全さやダメさを責め立ててネガティブに感じる必要ってまったくなくて、
自分の汚い部分も開示していくほうが、効率的だ。良い部分だけ切り取っていくのは、自分がすることではなく相手がすることだと思っている。大浴場で一人だけで浸かっているならそれなら家の風呂でいい。
自分以外の誰かがいて、普段服を着ている我々がそのときだけお互い裸のつきあいをすることの意味。単に風呂が温かいという以外の、無限の感情があるだろう。湯気の中から現れる人の幻想的な感じや他人が並んで座り頭や体を洗う景色、人々の湯の中でのポジション、迷子で泣き叫ぶ子ども。
大浴場で一人なんて嫌すぎる。不気味で心が冷え冷えになる。
なぜ大浴場の例を出したかわからないが、たぶん知らず知らずに温かい気持ちを共有しているってことを言いたかったのだろう。
陰口ばっか言ってる時間はない。
おおいに他人と自分のダメさを認め、愛する。
わたしはこの活動をこれからも続けていくつもりである。