y0u2k7a5loveの日記

詩とか小説書きます。

幻のようで夢のようなバンド

サニーカーウォッシュの解散ライブを見てきた。場所はお台場のZepp

コロナ感染対策のためマスク着用に声も出せず参戦。リアクションが取りづらいため、ちょっと歯痒い感覚があったが、会場全体が徹底していたので安心して見れた。

サニーカーウォッシュとは、栃木から生まれたスリーピースのバンドである。メンバーが入れ替わり今はサポートがドラムに入り活動している。

わたしはこのバンドの最後の演奏を聴くことができて、良かった。チケットが取れてほんとうに嬉しかった。ライブでは少し泣いた。

彼らの続けてきた活動の5年という歳月が幻のように短く夢のように幸せだった。

といってもわたし自身彼らをライブで見たのはこの解散ライブが2回目である。初めて見たときは大学生の友達と行き、目当ては違うバンドだったが、そのときにサニカーを知り、小さなライブハウスの舞台で暴れている彼らを見て強烈な印象を持った。途中から来た汗だくサラリーマンたちが前方を占領し、踊り狂っていた。

 

記憶に残る音楽ってその質やパフォーマンスがどうのこうのというより、どれだけ1人の人間の心を揺さぶれるかなのだ。

わたしはまさに彼らに揺さぶられた人間の1人である。

彼らのコピーがうまいバンドを聴いても同じ感動は得れない。

彼らの作り出すエネルギーのようなものは唯一無二で、他のバンドとは何が違うのかと言われるとそれは「不完全さ」からくるものなのだろう。

わたしはたくさんのバンドを見てきたけど、このバンドを初めて見たとき、ただ単に、なんかいいなぁと思った。「なんかいい」はそのうち消えてしまうことがあるが、そのときはしばらく余韻として残り続けた。

メンバーひとりひとりのあどけなさや、優しさ、謙虚なところがとても魅力的で、

音作りもシンプルだし、歌詞や歌い方もストレートで、テクニカルで聴かせるバンドというよりかはバンドが作り上げた空気感を共有しそこで交流していくというような、文学的な印象を受ける。

人物像が彼らの音楽から浮き上がってくるのだ。それはもしかするとこちらの思い込みかもしれないが、演者と聴く側で音楽を共有している間はほんとうに会話しているような感覚になる。

それは、歌詞から歌い方から立ち振る舞いなどから彼らがどんな人なのか伝わってくる。

ボーカル岩崎優也自身、とても純粋な性格をしている。一般的にここまでの純粋は少なく、やはりアーティストには多い方かもしれない。わたしが知っているのはバンドSEKAI NO OWARIの深瀬や、歌手のCharaといったところだろうか。共通しているところは、悲しさや寂しさに蓋をせずきちんと感情として出したり、ちょっと恥ずかしいくらい愛とか本質的なものと向き合えるところ。

またベースのハネダゴウも優しさが滲み出ている。2人とも小学生のように無垢な感じがほんとうに魅力で、脱帽。解散ライブではあるが、淡々とベースを弾いていて「楽しい」と言っていた。

彼らは20代前半であるが、それくらいの歳というと大人が漂わせる丸さも出つつ、どこか尖りも残っていることが多い。大人が漂わせる丸さというのは、子供のような純粋さがすり減り、物事を理解して自分自身や大事なものを守る力である。

彼らはその丸さより純粋さが勝っている。

一見そう見えて、そこが魅力なのだが、それだけではない。色々な表情を持っている。

 

飾りけがなく等身大で楽しんでいる自分たちを見せようとするところ。それはこのサニーカーウォッシュの目指していることかもしれない。

いつまでも自分たちが思った、感じたことを忘れないんだからな!みたいな強いエネルギーが溢れている。

彼らの曲にこんな歌詞がある。

 

「大人になって分かることなんてほんとうにあるのだろうか 

牛乳を飲まなきゃいけない理由はまだ分からないよ」      

       週末を待ちくたびれて より

 

これを見ると、あどけなくて純粋なんだなと思うけれど、ちょっと世界を客観してるところもあって例えば

 

「子供だった僕は大人になって

涙の出る理由も変わっていった」 TOKKO より

 

これは最近出た曲だ。若さゆえの葛藤している感じがベースにあるのだが、どこか諦めのようなところもあってそこにものすごく大人っぽさを感じ、寂しい気持ちにさせる。彼ら自身、大人になったことを少しずつ受け入れているのだなと。

彼らは、感じている寂しさもぜんぶ隠さずに曲の中でそのまま表している。いつまでも夢を見ているんだ、と叫んでいるだけではなかった。

それは同時に、自分も大人になってしまったということを知らされる。

大人になることがなぜ寂しいのかはわからないが。誰にでもこのような気持ちは存在するのではないか。

そもそも大人になってからじゃないとこの感情に気づくことができない。

でも、大人になったことを実感しつつ、それでも尚、「わがまま」を言っていたいというこのバンドの気持ちと我々の気持ちが重なったとき、心が揺れる。

そう、その音楽の中で同じ空間を共にしている間は少なからずわたしたちは双方ともに「子供」のままでいれるのだ。

サニカーからこう言われている気がする。

夢は忘れてはいけない。

夢を見続けるうちは、わたしたちはまだ完全な意味で大人じゃない。

心のどこかに子供を飼い続けていくんだ。

不完全なままでいいじゃかいか。

わたしはサニカーのことを忘れない。バンドはいつまでも心の奥で鳴っている。今回解散ライブに来れなかった人たちの心の奥でも。

音が鳴り続けている。

 

 

 

 

それぞれの

生きてることを感謝しなきゃいけない。

と、よく思う。

嫌なことをして嫌なことばかり考えて生きていたらただ悲しいだけだ。

生きることって自分のためだけじゃなくて、誰かのためにも生きることになるのだ。

わたしはひとりで生きることなどできない。

育ててくれる人がいて、お金を稼いでご飯を食べさせてくれる人がいて、食料が簡単に手に入る環境がある。それが当たり前のようで、感謝さえも忘れてしまうほどだ。

でも、この地球のどこかには、それが当たり前じゃない地域もたくさんある。

そもそも、人間に食べられるために生まれて育てられたもののことを考えると、いたたまれなくなる。

 

だからこそ私ができることは何か考えてみた。

そうしたら、

いつもいつも、感謝して生きるべきだというところにたどり着いた。

 

そのために、心も体も健康にしてあらゆるものに優しくなる。

我慢せず、自分を知り他人をもっと理解して、理解できないことはそのことを理解する。

みんなが幸せになれたらいいのに。

わたしは自分の世界を淡々と生きている人が好きだ。

なぜならとても幸せそうに見えるし、なによりかっこいいから。

心から笑える人の笑顔とか、その人にしか作れない素敵な表情を見ると惚れ惚れしてにやにやする。

そして自分の世界がある人はみんな優しい。

依存せずに人を愛せる。

望んでいることって人それぞれだけど、実は生きているだけで幸せなんじゃないかと思う。

辛いことをあげたらキリがないけど、長い時間が経つと意外とそうでもなかったなと思えてくる。

自分に余裕がないと、誰でも荒んでしまうのは当然だ。

幸い、今は健康があればバイトもできるし食料も簡単に手に入るから、生きていくことはできる。

心身ともに健康的でいるのってとても難しいようで簡単なことでもある。

物事を常にどうすれば解決するか、考えれば前向きになれる。

着てる服が暑ければその場で一枚脱げばいい。

走れるように身軽な格好がいいなら手ぶらになればいい。

今が幸せなら、お金持ちになって大きい家に住まなくたっていい。

私たちの心身的な疲れって

大体が我慢なわけで

その我慢をなるべく減らしていけばそれだけでもかなり変わってくるはず。

みんなが聴く音楽がおしゃれ。

そろそろ結婚しなくちゃいけない。

子供を産まなきゃいけない。

家族を支えなきゃいけない。

人はみんななにかしら、自ら何かで縛り付けてそれが大きな疲労になって少しずつ蝕んでいく。

もっと自由に生きていいのに。

そうすることで生きていることを

感謝できるようになるのに。

私も自身を縛り付けている。感謝しないと犠牲になったものたちに対し、いたたまれないと思っていること。

でもそれは生きる意味であり目指す道しるべのようになっている。

少しでも生きていることを感謝するために、

明るく。

 

陽気

わたしは陽気だ。

天気が良ければ音楽を聴いちゃうし、電車に乗って通勤するだけでもうきうきする。

仕事は大きな声であいさつし、自分なりに明るくスマートにこなしているつもり。

今やることはとりあえず誰がなんと言おうと目の前のことなのだ。下手なりに一生懸命やらないといけない。すぐ不安になれば、師匠のことを思い出す。

「もし自分が経営の立場だったら自分にいくら払うか」

自分のあるべき場所に向かってストイックに生きる人だ。わたしは陰でこの人を師匠と呼んでいる。

彼女のことを思い出すと鬱々とした気持ちが飛んでいってしまう。

自分の世界を生きている人は世界一輝いていると思う。明るさや暗さは正直関係ない。

そこにある道を自分なりに歩くこと。

 

わたしは水族館の魚を見て思う。

魚に感情はないと、カートコバーンは歌っていたけれど無いわけじゃない。

あることはあるが、生きる上で最低限の感情と言えばいいのだろうか。

人間や哺乳類のような、複雑な感情が少なそうに見えるのだ。

小さな水槽に閉じ込められているもの、困惑の表情は見せず、悲観的にも見えず、ただ止まっては生きていけないのだとばかりに水槽の中を泳ぎ続けている。それが人生なのだよ、と語っているみたいに。

流れに身を任せ、複雑な感情は身につけず、しかし最低限の感情は垣間見えて、例えば群れの中で協調しながら泳ぐ魚とか、海藻に隠れて自分のテリトリーを守る魚とか、バケツほどの水槽の中でどこに向かうでもなく小さな手をめいいっぱいパタパタさせながら泳ぐクリオネなど、どの魚もとてもシンプルに生きているけど生命力で溢れキラキラしていた。

これが大海原であれば、野生的で危険もたくさんあるために魚たちの目は血が通い、細胞はピンと張りつめて引き締まった艶やかな身体になっているはずだ。

にも関わらず、水族館で泳ぐ魚でさえもこんなに生命を感じることができたのは魚の生き方がとてもシンプルでそれゆえにみんな違った生活スタイルをしていて、個性が強いものであるからではないか。

ただし、やはり大きい生き物、アシカやイルカ、アザラシやペンギンなどは様々な人間に近い感情が感じられてしまい、たまに心が痛くなるときがあった。本来であれば広い海で悠々と泳げるはずの大きな生き物たちからすればそこは狭すぎる水槽で、くるくると同じ場所を泳いでいる姿はどうみても「可愛い」だけの感情で収まりがつかない。小さい頃は何も知らなかったから純粋に(それが純粋なのかもわからないが)可愛いと言っていただろう。

水槽にへばりつきこちらを見ているペンギンは人懐っこいタイプにも見えるが、本当は外の世界に出たいという気持ちが他よりも強く表れているのかもしれない。

イルカショーのイルカは犬のように人間に対し献身的で共に生きているように見えた。

だからこそ、労働している感が強く、その仕事ぶりに涙が出た。みんながすごーい!と無邪気な様子で観ているのに対し、涙している自分がなんとも恥ずかしく、プールの照り返しの眩しさを利用して、一生懸命眩しいアピールをしながら観ていた。

 

そんな風に考えるようになったわたしは大人になったからなのか。

子供の頃わからなかったことが今ではわかるようになったという意味で大人になれてよかったと思うけれど、逆に色んなことを考えるようになって生きづらくなったとも思う。

魚のようにシンプルに生きることができればいいけれど、難しいことばかりなのだ。

 

日常では得ることができない体験を休みの日にしなければならない、と今日あらためて思った。それこそ「休む」ことなのだと。

日常ですり減らした分を取り戻す。少なくともわたしは何気なく寄った水族館の体験を忘れない。

単純に疲れた心身を休ませることも大切だしそれも休む目的である。

しかしそれだけでは仕事をするために休んでいるだけな気もする。

自分の生活を人生を自分にとって豊かなものにするためにわたしたちは生きていくべきで、そうすることができている人は魚のようにシンプルに、かつ個性的に生きていると言える。

ただ泳いでいる魚には魅力があるということを今日知った。

必要以上に多くのことを考えず、そこにある道をただ歩き続ける。

そこには焦りも嫉妬もなく競走もない。

腹黒い感情もない。

ただ、人間からそのような感情を取り除いたら知恵がここまで発達せず、ゴリラのように穏やかに草を食べながら生きていたかもしれない。

ここまで人間を発達させたのは間違いなく嫉妬や争いといった腹黒い感情があったからだから、そんな綺麗事も言えないが。

綺麗さっぱりと嫌な感情を拭い去ることはできないから、共存していかなければいけないけれど、もう少し緩やかに過ごしたい。

便秘が続くと焦るし、ジャンキーな美味しいものを食べると便秘になるし、でも身体のための食事よりジャンキーな美味しいものが食べたいし、世の中はとても理不尽だ。

シンプルに生きたいと願うほど、情報過多な世間になっていく。世間に逆らうように生きようとするとそれはまた不安なことで。

力が入った状態では泳げないから、せめて力を抜いて、身体の浮力を生かしながら泳ぐ。

そんな感じで今年も無事に終えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜を抱きしめて

ジョンレノンの『Love』

わたしはいろんなひとになろうとする。

でも、そんなことしてもなんにもなれなくて、

たったひとり自分が残っているだけだ。

プレッシャーに弱くていろいろ頑張るけれどうまくいかなくて自分を責め続けている。

ほんとは肯定していかなくちゃやってられないってのにね。

でも、ジョンレノンを聴いていると人間として、存在が認められているような暖かさがあって全てにやさしくなれる。

好きなバンドが12月に解散する。

わたしのまわりから次々と人が離れていく。

それだけ強く生きていかなくちゃいけない。

いつまで目の前のことを頑張るつもりなの?

わたしはすべてのやさしさを感じたいし、信じたい。そして愛していきたい。

誰かのために頑張らせてよ。

存在意義を見出させてよ。

冬になると尾崎豊の『OH MY LITTLE GIRL』を聴きたくなる。

わたしはやさしさに触れたときとても素直になれる。

なるべくなら、いつでも素直でいたい。

つまり自分が感じたままを認めてあげたい。

怒っちゃダメなのは嫌。

感情を捨てて、だれかを愛せる?

全ての感情を抱きしめることが愛でしょ?

だから自分の中の全ての感情を愛しなさい。

ジョージハリスンの歌う歌がなぜあんなに暖かくて本当にやさしいのか、それは彼が謙虚でやさしくてその分不器用でずっと苦しい思いをしてきたからだと思う。

美味しい思いばかりしたい人は、いい男を捕まえるために努力をたくさんするの。髪を巻いたり流行りの可愛いとされてる服を着たり。それで、それなりのメーカーとかに勤めてる人と付き合ってデートして愛されて結婚して元気な赤ちゃんを産んでその赤ちゃんはおっぱいをたくさん飲んでくれて大きな持ち家に家族で仲良く暮らすの。

夫に美味しいご飯を作ってあげて家で家事だけする日々を退屈だとか、近所のママたちとファミレスで愚痴を言い合うのを息抜きと思ってる。でもそれはきっと幸せだと思う。

わたしはそんな幸せの道を歩んでいくようなタイプではない。願望がないのだ。

では、どんな願望があるの?

誰かと心と心を通わせられて、お互いに信じられて、尊敬し合うことができたらとても暖かい気持ちになれると思う。

それを人々は運命だとか言うのかもしれないけど、わたしにとっては男も女も関係ないし、年齢も国籍も関係ない。

そんな人たちとご飯を食べたりお互いの時間や性格を大切にしながら長くつきあっていくことができたらとても素敵だ。

行ったことないところを歩いたり、人が入れなそうなとこに踏み入れて笑ったり、落ちてる桜を食べて甘いねと言ったり、夜遅くに繁華街を歩いてたら変なじじいに絡まれて二人で無視したり。ちょっと悪い顔をしてちょっと悪いことをするのだ。特に話すことがなくてもいい。

 

わたしは心に少し問題を抱えているから(このくらいの年齢はそれが出やすいのかも)うまく自分のことを話せないし、多くの人と心を通わすことが難しい、それでも話すと嬉しくなる人がいるし、どんなきっかけかわからないけどよく話すようになる人とも出会う。それに関しては本当に不思議なことだ。なぜならどんな人とも仲良くなれる能力がないし、人懐っこいタイプでもない。誰かと誰かが仲良くしててもそうなんだと思ってそれ以上の感情は湧かないのだ。

それでもぶすっとしてるのも苦手で、常に顔色を伺ったり気を遣ったりしすぎる。

なんか気が張っている。どうしたらいいかわからない。とりあえず目の前のことに一生懸命になるしかないのだ。

そして不器用な部分も含めて、それが自分なんだということを愛せるようになりたい。

 

とりとめのない話

これはとりとめのない話。

自分と向き合っているときの独り言のようなものだ。最近は物事に対し、いろいろと迷走するためこうやって書いて整理したい。

 

今日は満月だ。部屋の電気を全部消して、窓を開けて外に出て月を見る。

10月も半ば、冷えた空気が肺に入る。

こういうときタバコが吸えたら気持ちいだろうなと思いながらぼんやりと空を見上げている。

友達が教えてくれたおかげで私はこうして月を見ることができたので、感謝したい。

私は目が悪く月が満月かそうでないかもわからない。ただ、月が白く光っているのはわかる。

星も見ることができるが、細かいものまでは目に届かない。だから眼鏡をかけると本当に細部まで見ることができ、感動してしまう。

満月の月も星がちかちかと光っていることも見える。オリオン座を作っている星たちはそれぞれ光の色が違い、光が強くなったり弱くなったりして生き物みたいに見える。

わたしたちはとっても小っぽけな存在で、それぞれが抱えているものも宇宙の星たちからしたら実はささいなことなのだ。

そう思うようにしてみれば、けっこう人生も捨てたもんじゃない。

死ぬまで美味しいものを食べて、気の合う人と会って、寝る場所があればいい。

そのために一生懸命に働いて稼ぐ。

いろんなことを考えたり挑戦してみる。

毎日同じことをしていては、同じ感じ方しかできなかったり、洗脳されたりする。

自分のとる行動にはすべて意味がある。

私はおとといから枕の位置を上下真逆に変えて寝ている。

いままでは部屋の扉側に枕があったが、いまは部屋の窓側に枕がある。部屋の扉側のころはなんだか息が詰まる感覚があったが、枕を窓側に変えてから視界も開けて圧迫感がなくなったのだ。

それから、私の生活面で他にも変えたことがある。メイク落としをオイルタイプのクレンジングから拭き取り化粧水のタイプに変えた。

わたしは意外とまわりの影響を受けいれる面があり、人からのおすすめはすぐ試す。

菊正宗から出ている拭き取り化粧水(水クレンジング)も友達に勧められ購入。

コットンに化粧水をひたひたに垂らして、顔を拭いていく。水クレンジングはメイク落とし、洗顔、化粧水まで完了するものが多く、世の女性が踏んでいるメイク落としから保湿までの長い工程が省ける。とても楽な代物だ。

ズボラの私が手に入れてはいけないものだった。拭き終わりは爽快感があり、肌はもちもちする。これで寝ても問題ない。拭けば洗顔できるということは朝もこれで済ませてしまおうという考えに至る。その結果、私は顔を洗わなくなった。加えて化粧水や乳液など保湿もしなくなった。それでも良い状態が保てればいいが、そんなに甘くもなく。ただいまニキビが数カ所出ている。

人生めんどくさいことがたくさんある。

それをしなくちゃいけないときもあるし、しなくても大丈夫なときもある。自分が決めることだし、降りかかるのも自分なのだ、と思うこのごろ。

ただ、自分はそれでもきちきちと計画的に生きていくのが苦手だ。

わたしは粉々になって散って

眠れないベッドの上で

ブルーライトを浴びながら

口の中の透明なマウスピースを舌の先で触っている。

人間の起こした革命がわたしの中にも

溢れていて

真っ赤なハートのろうそくが熱でだんだんとけていく

いびつなかたちになっていく

誰かの気配で意味もなく

スマホの画面を指でなぞり

この生活がどこまでも続いていく気がして

わたしが変われば世界も変わる?

そんなことあるよと笑う人

コンビニのご飯は美味しいとおもう無責任になれることが羨ましいとおもうナンパ相手に愛があるとおもう過去の人は過去の人だとおもう

いま生きているわたしは

粉々になって散って江ノ島の海の一部になるとしたら

太宰治の女として

やりなおせるのかしら

いや

やりなおしたいわけじゃなくて

ただいろんな悲しみをだきしめて

知らない人の手を握り

あてもなく歩く夜の街に

意味があることを

わかるようになりたいだけだ

これが大人になるということかなんて

胡散臭いセリフを吐き捨てて

自分が思ってるよりみんなちょっと

大人じゃない

わたしたちは健気ながら

粉々になって散ってゆくだけ

愛の星の下で

 

 

 

 

 

 

 

ライフオブウェイスト

何のために生きているのだろう?

人間誰しも考えることではないだろうか。

規則正しく生活すること、自分が成長するため、誰かのため、何のためでもないただ生きているだけ、ご飯を食べるため、楽しいことをいっぱいするため、

いろんな答えがあるだろう。それはすべて間違いじゃない、すべて正解だと思う。人は生きているだけでそれだけで本当はいいんだ。

でも、人はみんな理由や意味を見つけたがる。

わたしも見つけたがる。わたしは何のために生きているのか?

きっと温かい気持ちになるため。

それがどんなことか、今も明日も探し続けている。

どんなときにあったかい気持ちになるだろう?

そう質問されたらわたしはたぶんすぐに答えることができない。

あったかい気持ちになるときなんて、予測不可能なのだ。

名前のない感情だったりするんだ。

そんなものにたくさん出会うことそれがわたしの生きる理由。

例えば今日はたくさんあった。

たくさんあったけど、わたしはうまく言葉にすることができない。

でも、思い出してみる。

煙草の煙を気にしながら私の一歩後ろに座る友達のこと。自然をリスペクトする人で、必ず立ち去るときにお礼を言う。笑顔でいることは何もなくてもすぐできることだと教えてくれた。

なんでか分からないけどこの人とこの先ずっとこんなふうにお酒を飲んでいるんじゃないかという気がしている。

前向きで明るくてしっかり毒もあるたくましいお姉さんだ。

わたしはそんなお姉さんに全てを語ることはないけれど、落ち着いていられる。なぜだろう、わからない。わたしは言葉をあまりにも知らなすぎる。

ただ、ひとつ、わかるのは

お互いを大事に思うこと。

これはごくあたりまえで本質的なことかもしれない。

大事に思おう。とするのではなく感情は溢れ出るものであるべきだ。

お姉さんは自分の感覚に絶大な信頼を置いている。指から血が止まらず病院で焼いて止血した後すぐ仕事に戻り、売り上げをガンガン取っている人だ。

なんというかどこからそのエネルギーが捻出されているのだろう。

ただ、人間性に惹かれるものがあってわたしはその人といるとなにかしらの感情が溢れ出ている。

わたしたちは、温かい気持ちを共有しながら生きているんだ。

これは言うまでもなく愛で、愛というとちょっと恥ずかしいけど、そもそも誰しもが不完全にできているんだから、しかたない。

不完全だから我々はそれを恥ずかしいと思うけど、どっかの誰かは不完全なものを見て温かい気持ちになるかもしれない。

不完全さやダメさを責め立ててネガティブに感じる必要ってまったくなくて、

自分の汚い部分も開示していくほうが、効率的だ。良い部分だけ切り取っていくのは、自分がすることではなく相手がすることだと思っている。大浴場で一人だけで浸かっているならそれなら家の風呂でいい。

自分以外の誰かがいて、普段服を着ている我々がそのときだけお互い裸のつきあいをすることの意味。単に風呂が温かいという以外の、無限の感情があるだろう。湯気の中から現れる人の幻想的な感じや他人が並んで座り頭や体を洗う景色、人々の湯の中でのポジション、迷子で泣き叫ぶ子ども。

大浴場で一人なんて嫌すぎる。不気味で心が冷え冷えになる。

なぜ大浴場の例を出したかわからないが、たぶん知らず知らずに温かい気持ちを共有しているってことを言いたかったのだろう。

陰口ばっか言ってる時間はない。

おおいに他人と自分のダメさを認め、愛する。

わたしはこの活動をこれからも続けていくつもりである。