陽気
わたしは陽気だ。
天気が良ければ音楽を聴いちゃうし、電車に乗って通勤するだけでもうきうきする。
仕事は大きな声であいさつし、自分なりに明るくスマートにこなしているつもり。
今やることはとりあえず誰がなんと言おうと目の前のことなのだ。下手なりに一生懸命やらないといけない。すぐ不安になれば、師匠のことを思い出す。
「もし自分が経営の立場だったら自分にいくら払うか」
自分のあるべき場所に向かってストイックに生きる人だ。わたしは陰でこの人を師匠と呼んでいる。
彼女のことを思い出すと鬱々とした気持ちが飛んでいってしまう。
自分の世界を生きている人は世界一輝いていると思う。明るさや暗さは正直関係ない。
そこにある道を自分なりに歩くこと。
わたしは水族館の魚を見て思う。
魚に感情はないと、カートコバーンは歌っていたけれど無いわけじゃない。
あることはあるが、生きる上で最低限の感情と言えばいいのだろうか。
人間や哺乳類のような、複雑な感情が少なそうに見えるのだ。
小さな水槽に閉じ込められているもの、困惑の表情は見せず、悲観的にも見えず、ただ止まっては生きていけないのだとばかりに水槽の中を泳ぎ続けている。それが人生なのだよ、と語っているみたいに。
流れに身を任せ、複雑な感情は身につけず、しかし最低限の感情は垣間見えて、例えば群れの中で協調しながら泳ぐ魚とか、海藻に隠れて自分のテリトリーを守る魚とか、バケツほどの水槽の中でどこに向かうでもなく小さな手をめいいっぱいパタパタさせながら泳ぐクリオネなど、どの魚もとてもシンプルに生きているけど生命力で溢れキラキラしていた。
これが大海原であれば、野生的で危険もたくさんあるために魚たちの目は血が通い、細胞はピンと張りつめて引き締まった艶やかな身体になっているはずだ。
にも関わらず、水族館で泳ぐ魚でさえもこんなに生命を感じることができたのは魚の生き方がとてもシンプルでそれゆえにみんな違った生活スタイルをしていて、個性が強いものであるからではないか。
ただし、やはり大きい生き物、アシカやイルカ、アザラシやペンギンなどは様々な人間に近い感情が感じられてしまい、たまに心が痛くなるときがあった。本来であれば広い海で悠々と泳げるはずの大きな生き物たちからすればそこは狭すぎる水槽で、くるくると同じ場所を泳いでいる姿はどうみても「可愛い」だけの感情で収まりがつかない。小さい頃は何も知らなかったから純粋に(それが純粋なのかもわからないが)可愛いと言っていただろう。
水槽にへばりつきこちらを見ているペンギンは人懐っこいタイプにも見えるが、本当は外の世界に出たいという気持ちが他よりも強く表れているのかもしれない。
イルカショーのイルカは犬のように人間に対し献身的で共に生きているように見えた。
だからこそ、労働している感が強く、その仕事ぶりに涙が出た。みんながすごーい!と無邪気な様子で観ているのに対し、涙している自分がなんとも恥ずかしく、プールの照り返しの眩しさを利用して、一生懸命眩しいアピールをしながら観ていた。
そんな風に考えるようになったわたしは大人になったからなのか。
子供の頃わからなかったことが今ではわかるようになったという意味で大人になれてよかったと思うけれど、逆に色んなことを考えるようになって生きづらくなったとも思う。
魚のようにシンプルに生きることができればいいけれど、難しいことばかりなのだ。
日常では得ることができない体験を休みの日にしなければならない、と今日あらためて思った。それこそ「休む」ことなのだと。
日常ですり減らした分を取り戻す。少なくともわたしは何気なく寄った水族館の体験を忘れない。
単純に疲れた心身を休ませることも大切だしそれも休む目的である。
しかしそれだけでは仕事をするために休んでいるだけな気もする。
自分の生活を人生を自分にとって豊かなものにするためにわたしたちは生きていくべきで、そうすることができている人は魚のようにシンプルに、かつ個性的に生きていると言える。
ただ泳いでいる魚には魅力があるということを今日知った。
必要以上に多くのことを考えず、そこにある道をただ歩き続ける。
そこには焦りも嫉妬もなく競走もない。
腹黒い感情もない。
ただ、人間からそのような感情を取り除いたら知恵がここまで発達せず、ゴリラのように穏やかに草を食べながら生きていたかもしれない。
ここまで人間を発達させたのは間違いなく嫉妬や争いといった腹黒い感情があったからだから、そんな綺麗事も言えないが。
綺麗さっぱりと嫌な感情を拭い去ることはできないから、共存していかなければいけないけれど、もう少し緩やかに過ごしたい。
便秘が続くと焦るし、ジャンキーな美味しいものを食べると便秘になるし、でも身体のための食事よりジャンキーな美味しいものが食べたいし、世の中はとても理不尽だ。
シンプルに生きたいと願うほど、情報過多な世間になっていく。世間に逆らうように生きようとするとそれはまた不安なことで。
力が入った状態では泳げないから、せめて力を抜いて、身体の浮力を生かしながら泳ぐ。
そんな感じで今年も無事に終えたい。